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WEB・CD-ROM・DTPのサムクイックがお届けするコラムページ「私的事情」です。
どうぞごゆるりとお楽しみください。 |
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外村 大 |
左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。 |
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第7回:前回の補足、中間のまとめと今後の見通し |
2004.10.2
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前回のコラムを書いた後、資料を見直していたら、間違いに気付いた。『新編 日本流行歌史』の年表から拾う、1950年代前半の朝鮮関係の流行歌にはもう一つ、1951年の「連絡船の歌」というのがあった。これは金松奎が作曲しており、元々は植民地期に朝鮮語で吹き込まれたとされている。日本盤では作曲者は日本人名で表記されたようである。
それと、もう一つ、1950年代前半に朝鮮関係の歌がある程度、作られていることの背景に関して書き忘れたことがある。それは朝鮮戦争の影響も幾分はあったかと思われることである。
朝鮮戦争は、1950年6月に始まり、1953年*月に休戦成立となっている。日本のすぐ隣で、多数の一般市民を巻き込んで行われた戦争であるとは言え、この時期、一般的な日本人には朝鮮戦争は「他人事」であった。社会主義者のなかには反帝国主義の闘いとしての朝鮮の戦局に多大な関心を払った人々もいたわけであるが、これは当時の日本社会のなかでやはり少数である。ただ、やはり、朝鮮に縁のある人々―朝鮮の山河を知っている人、朝鮮人の知己がいる者―にとっては、朝鮮戦争のニュースに無関心ではいられなかったであろう。
前回、紹介したもののうち、「涙のチャング」は、朝鮮戦争の影響が関係していると見てよいであろう。この曲の歌詞には、「昨日は南、今日は北」とか「荒れた山肌 まく砂に」などと朝鮮戦争の戦乱を逃げまどう人を思い起こさせる文言が含まれている。また、作曲者の古賀政男は、朝鮮在住経験がある。そして、歌手の小畑実は在日朝鮮人である。『新編 日本流行歌史』は、「彼はどんな思いでこの歌を歌ったことだろうか」と記している。
前回の補足は以上である。これまで、駄文を書き連ねたが、その底流には、"今日の韓国ブーム以前にもそれなりに日本人は朝鮮・韓国の文化を気にしたり接してきたりした"、"見方によっては戦後の早い段階のほうが朝鮮を身近に感じている日本人がいたかもしれない"、"それには在日朝鮮人やかつて朝鮮に在住した経験を持つ日本人が関与している"といった推測がある。
となると、さらに、朝鮮が日本帝国の一部であった時期、つまりは1910年〜1945年については、今日、ほとんど忘れ去られている、日本人の間での朝鮮文化の受容、日本内地への朝鮮文化の流入の事実があったのかもしれないというさらなる推測も可能である。今後の回はそんなことを、若干の史料から検証していくこととしたい。
ただし、このコラムは「雑文」(これまで私のやってきた「研究」自体が「雑学」という話もあるが)というコンセプトなので、体系的には述べません。また、高尚な思想や純文学も、(たぶん)扱いません。苦手分野なので扱えないという話もありますが。それと、煩雑にもなるので、いちいち細かな史料の典拠も説明しません。もっとも、研究者の端くれなので、史料的根拠にもとづいて話は進めるつもりです。以上、敢えて書く必要もないような話ですが、念のための「おことわり」であります。
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