WEB・CD-ROM・DTPのサムクイックがお届けするコラムページ「私的事情」です。 どうぞごゆるりとお楽しみください。

 
 
 
外村 大 左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。
 
第2回:朝鮮語教師のVサイン
2004.07.24


  先日、私が御世話になった朝鮮語の先生が70歳ということで退職された。戦後日本における朝鮮研究の開拓者の世代にあたる方である。私は1966年生まれで1984年に大学に入学しているので、考え見れば、この世代の方々が研究者・教育者として能力を十分発揮している時期に学部時代を過ごしたとも言える。大学時代もっと授業に出ていればよかったと後悔することしきりである。
  いろいろと心に残ることが多い最終講義であったが、そのなかで、こんなエピソードを紹介されていた。朝鮮語の授業を始めた頃先生と、もう一人別な先生が朝鮮語の授業を担当されていて(初級、中級とか、文法、会話といったことであろう)、4月に初回の授業を済ませて戻ってくるその先生が廊下ですれ違いざまに自分にVサインを示された、という話である。この話は当時の状況をよく知る人であればピンと来るわけであるが、現在の状況だと、かん違いする人も多いだろう。Vサインの意味は"受講者が多くてよかった"とか"真面目で優秀そうな学生が多くて安心"ということではない。"今年は二人だったよ"のサインである。
  たぶん、この話は1970年代初めあたりのことだと推測される。日韓の国交も樹立され、経済関係も緊密化していたわけだし、歴史にせよ文化にせよ日本と朝鮮の関係はもともと深い。さらに言えば、在日朝鮮人60万人の存在を考えれば、当時であっても朝鮮語を学ぶ人はそれなりにいてしかるべきであったはずである。しかし、朝鮮語学習者はかなり限られていた。朝鮮語を学ぶ人は何か特別な存在と見なされたし、「多いのは某宗教団体と警察関係者」などといった話があったものである。
  私の学生時代はさすがにそういった状況に変化の兆しが見え始めていた。1984年にはNHK語学講座「アンニョンハシムニカ?」がはじまり、大きな大学ではそろそろ、朝鮮語の授業を行うところも増え始めていた。
  とはいっても、その時期でも朝鮮語学習者はそんなに多くはなかった。私が朝鮮語の勉強を開始したのは、1986年で大学の授業を通じてであった。選択の授業で、しかも卒業に必要とされる単位とは認定されない科目であった。受講者は十数人だったと記憶している。マンモス大学のなかでは稀な人数の少ない授業であった。さらに、次の年度に取った中級の授業では3、4人しか出席していなかったと思う。中級までやると卒業に必要な単位になるシステムになっていたのにかかわらず、である。
今は、朝鮮語教師たちはVサインどころか、うれしい悲鳴ないしは本当の意味での悲鳴をあげている。定員びっしりで、やる気・能力にバラツキのある学生を相手にし、おまけに受け持ちのクラスも増えている、といった状況にあるためだ。もちろん、朝鮮語学習者が増えるのは歓迎すべきことである。大げさかもしれないが、学習者個人の人生にとっても有益だろうし、さらに言えば政治家同士の握手よりよっぽど隣国同士の関係を良好なものとする上で効果があることは間違いない。


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04.07.20 第1回:確かにブームではある



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