WEB・CD-ROM・DTPのサムクイックがお届けするコラムページ「私的事情」です。 どうぞごゆるりとお楽しみください。

 
 
 
外村 大 左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。
 
第4回:最古の「韓国ブーム」はいつか
2004.08.20


  1970年代の私は、東京からかなり離れた地方都市に住んでいたし、まだ物心ついて間もなく中学も卒業していない。そのようなわけで、1970年代の時代状況、社会現象等を実体験として語ることはできない。
  ただ、どう考えても、その頃は、朝鮮に関心を持つ人も少なかったことは確かなはずである。前々回も述べたが、例えばそもそも朝鮮語や朝鮮文化を学ぼうにも、そうした講座を置いている大学自体が少なかった、という状況だったのである。金大中事件や金芝河救出運動があったわけであり(個人的に同時代に体験したわけではなく、後から知悉したという話です、念のため)、政治的な関心からいろいろ韓国に興味を持つ人はいたにせよ、韓国に関わる文化が、広く知られたり、注目されたりすることはなかったはずだ―と、このように私は認識してきた。
  しかし、1978年に刊行された金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるか』を読んでいたら、次のような記述にぶつかった。「1977年における…朝鮮関係書」の刊行は「30冊を超える盛況さである」、「主要都市の巷に、朝鮮語塾の開講が目立ち始めた」、「日本芸能界(レコード会社)に、一つの異変(?)が起きた…李成愛(24歳)というタレントが日本へ来て、…『カスムアプゲ』のレコードがよく売れ」ている……。つまりは、この時点でもちょっとしたブームがあったと捉えられているのである。今から見ればさしたる「ブーム」ではないにせよ、前の時期には考えられなかったような現象と見なされたことは確かである。
  となると、さらにそれ以前にも「韓国ブーム」があったのではないか、といったことが疑問として浮かんでくる。これについてはよくわからない。
  しかし、どんなに無理な史料解釈をしたとしても、1965年以前に「韓国ブーム」があったとする説は成り立たないだろう。
 まずそもそも1965年までは日本と韓国との間に正式な国交は無く、経済的な関係もそれほど密接ではなかったため、人間の往来も少なかったという条件が存在していた。と同時に、大概の日本人は韓国に対してよいイメージを持っていなかったということも影響している。かつて韓国という語から連想されるのは、独裁政権、強権的な反共体制、経済的に遅れた貧しい社会、といったことだった。これは1970年代から1980年代初めまで存続したイメージであろう。加えて1960年代半ばであれば、「李承晩ライン」とともに日本人漁船の拿捕問題の記憶が強烈であったはずで、とても一般の人々が韓国文化に親しむという雰囲気はなかったはずである。



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第1回:確かにブームではある
第2回:朝鮮語教師のVサイン
第3回:個人的記憶でさかのぼる過去の「韓国ブーム」
第4回:最古の「韓国ブーム」はいつか



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