WEB・CD-ROM・DTPのサムクイックがお届けするコラムページ「私的事情」です。 どうぞごゆるりとお楽しみください。

 
 
 
外村 大 左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。
 
第6回:K−POPは知らないけれど……
2004.09.17


  「韓国ブーム」のなかで、韓国の若者向け音楽の日本での売り込みも盛んである。どれだけ普及しているのかK−POPなる語も作り出されたようだ。最近、韓国でどんな曲が流行っているのかよく知らないし、BoAの曲すらよく聴いたことがない私であるが、5年前の韓国滞在時にはラジオやテレビで当時ヒットしていた歌には接していた。しかし、若者向けの曲は私の趣味には合わなかった。それと、「民族文化」とはあんまり関係なく、結局のところ「アメリカで流行っている音を韓国人が韓国語で歌っているだけじゃないか」といった感じを受けた。まあ、韓国で活躍している芸能人には、そもそもアメリカ育ちのコリアンが多いわけであるので当然とも言えるが。
  というように考えると、むしろ、1950年代前半のほうが日本人にとって"朝鮮の歌"は身近であったのではないだろうか? 『新版 日本流行歌史』(社会思想社、1995年)の年表を見ると、朝鮮関連の歌として、「涙のチャング」(1950年)、「畠へいこう」(1951年)、「アリラン哀歌」(1953年)、「木浦の涙」(1955年)が確認できる。もちろん、誰もが知っている大ヒットという曲ではないだろうが、「木浦の涙」あたりは、現在、高齢の日本人にも割合知られた懐メロではなかろうか。
  しかし、なぜ、この時期に朝鮮関係の歌が作られたり吹き込まれたりしているのだろうか? 理由の一つは、「外地」=日本帝国の植民地であった朝鮮に対する記憶がそんなに薄くなっていなかったことがあるだろう。さらに言えば、おそらく、朝鮮を懐かしく思い出す気持ちを抱くかつて朝鮮に住んでいた日本人たちの存在も関係していたのではないだろうか。戦前には、朝鮮で永住を前提として暮らし、そこで生まれ育った日本人も少なくなかった。そうした人々にとって、朝鮮は「郷愁」の対象であったであろう。ただ、これにはもちろん、"朝鮮ではいい思いをした"ということも関係するわけであるが。
  ところで、前記の4曲について作詞者・作曲者・歌手等を見ると、「畠へいこう」は許南麟作詞(朝鮮民謡原曲、歌手なし、たぶん、レコードとしては吹き込まれず、集会やなんかで歌われたとことか?)のほかは、朝鮮人名は見当たらない。と記すと、"なんだ、朝鮮の歌じゃないじゃないか"という声が聞かれそうである。しかし、そうではない。「涙のチャング」を歌った小畑実は在日朝鮮人、「木浦の涙」の作曲者の久我山明も実は朝鮮人の孫牧人である(「木浦の涙」はすでに戦前、朝鮮語版が朝鮮人の間でヒットしていた)。妙な話だが、歌手や作曲者が朝鮮人であることが隠蔽されたまま、"朝鮮の歌"が日本人に受入れられていたのである。そして、その後は、朝鮮を題材にした流行歌もなくなっていく。流行歌の舞台は演歌だと最果ての北海道、ニューミュージック(この語も死語でしょうけど)だと、アメリカになったりしたわけである。
  余談。K−POPは聴かないが、ケイコ・リーはCDも愛聴、ライブでも聴きました。当たり前ですが、「民族文化」を背負っているわけではなく、単なるジャズ・ボーカルなので、授業でも紹介しません。そう言えば、韓国でもCDは売っていたな。



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第1回:確かにブームではある
第2回:朝鮮語教師のVサイン
第3回:個人的記憶でさかのぼる過去の「韓国ブーム」
第4回:最古の「韓国ブーム」はいつか
第5回:では、「朝鮮ブーム」はどうだろう

 


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