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外村 大 |
左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。 |
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力道山伝説の? その(6):初土俵の頃の力道山を伝える新聞記事から |
2006.1.30
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力道山は1940年夏場所に初土俵を踏んでいる。これは相撲協会の資料等からも間違いないと見ていいだろう。新入幕は1946年11月場所であり、1948〜1950年にかけて小結、関脇をつとめている。したがって、熱烈なファンはともかく、同時代の多くの人にとってある程度の印象を与えたのは戦後直後の5年程度である。
ところが、この時期は紙の配給の制限もあり、活字資料はあまり豊富でない。そんなわけで、大相撲時代の力道山はこれまで、関係者の証言などから語られてきた。
しかし、筆者はたまたま、初土俵の頃の力道山について報じた新聞記事を見つけている。
それによれば、力道山は「咸南洪原郡□原面生れ金錫泰氏三男金信洛君(18)」と朝鮮人であることがはっきり記されている。そして、子どもの頃から相撲好きであったこと、昨年の「北鮮相撲大会」でも優勝し、その時、それを見ていた玉ノ海に懇望され、「又早くから同君の力量を認め角界入りを勧めていた玉ノ海の親類に当る六?警察署長の斡旋で」入門、「朝鮮古来の力技たる力道の名をとって力道と名乗」ったことなどが記されている。また、初土俵で7勝をあげたことについての次のような力道山自身のコメントも載せられている。すなわち、「師匠達が親切にしてくれるので毎日愉快に稽古を積んでいます、立派な関取となって半島青年の名をあげたいと思ひます、京城の兄(大正生命京城支店社員の金□洛氏)が聞いたらキッと喜ぶでせう、早速知らせてやります」というものである。
渡日の経緯などはこれまでの力道山に関して語られてきた証言と符合することが多い。地元の相撲大会(もちろん、シルム大会)で好成績を挙げていたこと、玉ノ海の関係者が入門に関与していること、警察関係者が一枚かんでいることなどがそれである。もちろん、完全に一致するわけではない(とりあえず『もう一人の力道山』などを参照されたい)。
しかし、毎日愉快に稽古を積んでいて半島青年の名をあげたいと、力道山が述べていたなどという話はこれまで語られてこなかった。ただし、これは力道山が本心から言ったことであるかどうかは確かめようがない。
これ以外で気になることがいくつかある。まず、年齢である。記事中に18歳と出ているのは数え年である。力道山は11月生まれであるとされる。とすれば、1940年の夏段階で数え18歳ならば、生年は1923年生まれということになるのではないか。なお、入門当時の記録では1923年7月14日生まれとされていたという指摘もある(『もう一人の力道山』31頁)。
また、四股名の由来についても、「二所ノ関部屋に飾られた近衛文麿の揮毫『力心一道』に因んだ」という説と異なる。ただし、朝鮮の古語で「力道」に何か特別な意味があったのかは不明である(ちなみに現代朝鮮語では「ウエイトリフティング」を指す)。
さらに、兄が大正生命京城支店社員であったことも知られていない。もし本当だとすると、力道山の家は子どもに教育を受けさせる程度の家庭であったという推測も可能となり、貧しい家の生まれというイメージも変わってくる。
新聞記事はあてにならないことも多いが、力道山に関心を持つ人のために敢えて記した。
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