| | WEB・CD-ROM・DTPのサムクイックがお届けするコラムページ「私的事情」です。
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外村 大 |
左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。 |
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懐メロ朝鮮紀行04:たどり着けるか南原(ナムォン)まで… |
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村井社長、お互い忙しくて、神保町周辺で会っても、茶を飲む暇もありませんね。フジロックはどうでしたか。いま、ようやく家に帰ってきて、図書館から借りてきたCDを聴いております。やっぱりローランド・カークはカッコいいなぁ…。
などと書いていると、また朝鮮とも懐メロとも関係ない話で終始しそうだ。前回、触れたとおり、新協劇団は「春香伝」を上演している。もともと、1930年代には、プロレタリア文化運動の一環として東京で朝鮮人が朝鮮語の演劇を行うことがあり、日本人の左翼文化人と交流をもっていた。そんななかでプロレタリア演劇運動の指導者であり、新協劇団を率いていた演出家の村山知義も朝鮮の演劇人と関係を持ち、朝鮮文化に関心を持っていた。その村山やこの時期すでに東京に移住し日本語で作品を発表していた張赫宙などが関わって、上演されたのが「春香伝」である。
新協劇団のほとんどのメンバーは日本人なので当然、劇は日本語で行われた。ただし、服装、舞台装置、音楽等、できるだけ朝鮮文化に近づけるべく、民俗学者宋錫夏などの助力も得たようである。そのほうがエキゾチズムを求める日本人の客を呼べるということもあっただろう。
戦前の社会運動の原資料を多数所蔵している大原社研には、この新協劇団の「春香伝」のポスターも保管しており、インターネット上で画像を見ることができる。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/image/PA0950.html
これを見ると一番下の真ん中にはチャンゴが描かれており、おそらく異国情緒を感じさせたと思われる。一番上は広寒楼であろうか。
この日本人が日本語で演じた「春香伝」は、それなりに好評を得た。そして、日本の興行界ではこの後、一種の「朝鮮ブーム」が言われるような状態を呈した。
しかし、これが手放しで評価できるような質を持っていたかとなると疑問である。そのあたりの点は、白川豊氏の『植民地期朝鮮の作家と日本』(大学教育出版、1995年)がしっかり分析している。要するに、すでに時代は朝鮮民族を国策に動員しようという時期に突入しており、新協劇団の「春香伝」もその一環で利用されようとしていたのである。白川氏は、日本内地での公演の後に行われた、新協劇団「春香伝」の朝鮮公演が朝鮮総督府の御用新聞である京城日報社がバックアップし、「内鮮融和」をアピールするのに使われたと指摘している。
ともかく、この頃から、日本人向けの朝鮮モノの企画が相次いだことは事実として確認できる。そんななかで、レコード会社ポリドールが上原敏と田中絹代という当時の大スターに吹き込ませたのが「春香伝」である。が、しかし、紙面も尽きたので。その内容は次回に紹介。
こんな調子で、春香伝の舞台、春香が待っている、全羅南道南原に着けるのかどうか、懐メロ朝鮮紀行。
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