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外村 大 |
左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。 |
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力道山伝説の? その(9):同時代の朝鮮人力士たちのケースとの比較 |
2006.2.21
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大相撲で最初の朝鮮人力士が誰であったかは確認できないが、力道山入門とちょうど同じ頃の朝鮮の新聞に「半島出身力士評判記」という記事が出ている。それによれば、この時点で三段目に3人、序二段と序ノ口に各1人いて、それ以外に最近3人が新弟子検査に合格したことが伝えられている。同じ記事では「古くは白頭山、金剛山などの巨人が半島相撲ファンの耳をソバ立てさせた」という文章があるので、それ以前にも朝鮮人力士がいたこともわかる。ただし、それほど上位にあがってはいないようである。
1944年時点の相撲雑誌の「星取表」から確認できる、力道山(この時点で幕下)以外の朝鮮人力士は幕下に4人、序二段に3人、序ノ口に2人となっている。
このうちの一人に、力道山より1歳年上で出羽ノ海部屋に所属していた智異ノ山という力士がいる。1940年1月に初土俵で、最初は咸陽山と名乗っていた。1944年夏場所後の相撲雑誌には「半島の生んだ偉材である。…稽古次第によっては次の時代を背負ふことができるであらう」という評を見つけることができるので、力道山同様、頭角をあらわし、将来を期待されていたことがわかる。
実際にこの力士は力道山と同じ1944年11月に十両に昇進している。だが、日本敗戦後、すぐに朝鮮に戻っている。
さて、この力士の四股名は朝鮮の地理について知る人であればわかるように、朝鮮半島と関連することは明白である。咸陽山は咸陽郡出身であったことから、智異ノ山はその近くの智異山からとったことは明らかである。故郷の近くの山や川にちなんだ四股名をつけることは相撲ではごく当たり前である。
しかし、民族差別があったなかでなぜそうした四股名をつけるのか、と疑問を持たれる方もいるかもしれない。だが、当時は日本帝国の建前は朝鮮も日本であり、朝鮮人も日本人なのである。むしろ、朝鮮の地名にちなんだ力士も国技に参加していることこそ、日本帝国の誇るべき姿を示す、と捉えられたとも言えよう(白頭山、金剛山というそれこそ朝鮮を代表する名山の四股名を持つ力士がいたらしいことはすでに述べた。このほか、台湾人の新高山という力士もいた)。
では、力道山以外の朝鮮人力士は、名前はどうしていたのであろうか。この点も「星取表」で調べてみた。それによると、智異ノ山は当初、盧*〔火偏に夏〕于という民族名で表記されているが、その後、豊川正一郎となっている。これは金信洛が金村光浩に変わったことが確認できる『相撲』1943年5月号の「星取表」による。
ちなみにこの「星取表」では、ほかにも5人の朝鮮人力士を確認することができる。そのうち朝鮮名そのままと見られる名前が使われているのは2人である。朝鮮名を用いるのは時期が下るにつれて少なくなっていったと見ていいだろう。
ただし、1944年11月段階でも、まだ、朝鮮名を用いている力士もいた。そして、名が日本風となっていた力士でも、「星取表」の出身地は「朝鮮」と記載されている。つまり、力道山以外の朝鮮人力士は戦前においては民族的出自を隠していなかったのである。
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