 | | WEB・CD-ROM・DTPのサムクイックがお届けするコラムページ「私的事情」です。
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外村 大 |
左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。 |
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力道山伝説の? その(8):文献資料から名前と出身地の変遷の整理を試みた |
2006.2.15
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金信洛という名前で暮らしていた人物はいつ、これと異なる名乗りを行うようになったのであろうか?
この点について、韓国の事典類では、1939年に日本に渡って百田光浩と改名、翌年から力道山という別名で相撲を始めた、といった記述となっている。また、牛島秀彦『力道山 大相撲・プロレス・ウラ社会』では、入門することになって金村光浩とし、その後、力士時代に玉ノ海の指示と工作で百田光浩としたことを記述しているが、その具体的な時点ははっきり示していない。
しかし、大相撲には番付がある。これにより、四股名と出身地の変遷は確認できる。それによれば、1941年の序の口時代には「朝鮮 力道山昇之介」と書かれており、同じ年の5月場所では「肥前 力道山光浩」となり、その次の1942年1月場所の番付では「長崎 力道山信洛」とされていたという。そして、これを最後に「信洛」が番付で使われることはなくなり、以降、「番付の名はすべて力道山光浩で統一されていくことになる」とされている(以上、『もう一人の力道山』32〜33頁による)。
ただし、番付の名前はあくまで四股名である。四股名以外で日常生活において用いる名前はどうであったのだろうか?
佐竹義惇『戦後新入幕力士物語』ベースボールマガジン社、1990年、の「力道山光浩」の項目はこの点について示唆を与えてくれた。そこでは「力道山は…昭和15年5月場所の初土俵、朝鮮出身で、当時の星取表には、金信洛と出ている。後金村光浩と改名し(18年ころ)、戦後さらに改名して、昭和22年ごろの星取表には長崎県、百田光浩となっている」との記述がある。
なるほど、相撲ファンのための雑誌に掲げられた「星取表」には本名や出身地が記されている。ということで、近くの図書館で見られる範囲の相撲雑誌を調査した。
その結果、次のことがわかった。まず、1943年1月に刊行された雑誌に載っていた「昭和十七年夏場所全力士星取表」では、出身地は朝鮮、本名は金信洛となっている。そして、同年5月刊行の雑誌での「昭和18年春場所全力士星取表」では「長崎」が出身地、本名は「金村光浩」となっている。前述の『戦後新入幕力士物語』での1943年に金村光浩に変わった時期が正しいとの記述が正しいことがわかる。
しかし、百田光浩が用いられ始める時期はよくわからない。私が見た範囲では、1948年頃の相撲雑誌にその名が用いられていることがわかるが、それ以前は「星取表」を見ることができなかった。今後の課題としたい。
なお、これまでの力道山に関する本によれば、1944年発行の戸籍抄本では、金村光浩の名が記載されており、また百田としての戸籍が作られるのは1951年3月19日とされている。とすれば、1947年頃百田を名乗っていたとしても、それはあくまで「通名」であって、法律上の名前ではなかったことになる。そのように民族名と創氏名のほかに第三の通名を持つ在日朝鮮人はおそらく珍しくなかったとも思うがこれは別の機会に述べたい。
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