前回も述べたが、大相撲の力士としての力道山については、これまで主に証言から語られてきた。そこでは、やはり力士としても有能であり、将来を期待されていた存在であることが明らかにされてきた。
先だって、当時出されていた相撲愛好家たち向けの雑誌をめくってみて、なるほど、実際にそうであり、人気があったことも確認できた。何しろ、まだ幕下の時点から、ファンの間でも力道山が話題にされているのである。
『相撲界』1944年3月号の「質疑応答」欄には、力道山についての「二所ノ関党」による「幕下力士中最有望と思ひますが如何ですか」という質問があり、次のような回答となっている。
常に元気一杯、稽古も人一倍熱心な力士ですが、幾分元気にまかせて粗雑な相撲をとりますので、春場所など期待はづれの負越しの成績でした。今後相撲に巧みと慎重さが出てくれば、鬼に金棒でしまった肉付のよい体を持っていて、気魄もよいので将来を期待し得ます。
その後開かれた1944年夏場所で力道山は全勝優勝を果たす。これについての『相撲界』の「解説」は次のようになっている。
…力道山は腰が柔く、粘りがあって、投もよく利き、双葉山の若かりし頃を髣髴せしむるものがある、つとに有望力士たることは衆目の一致するところであって、…欲を云ったらすでに十両に入るべき筈なのであるが、春場所にはいささか不調で負越してしまった。本人の言によると胃腸を痛めたと云っているが、場所前に体を痛めるとは言語同断である。とくに一擲乾坤を賭す大切な登竜門をひかえて、慎重を期すべきであると思っていると、夏場所には強敵千代ノ山を櫓投に一蹴して気を吐き、堂々全勝優勝を果した。四つになってから、間髪を入れず寄って行く具合や、投げ吊りに出て行く妙味は、充分稽古を積んだ跡歴然たるものが見られた。十両に入っても立派に働ける実力を身につけていた。ただ、美男子にあり勝ちな、周囲からの誘惑に身を失ふことのないやう、苦言を呈して自重精進を望んで置く。
ちなみに、千代ノ山は力道山より若いが、番付で若干、力道山の先を行き、力道山が関脇にとどまっていた1949年に大関となり、さらに1951年に横綱となっている。
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