| | WEB・CD-ROM・DTPのサムクイックがお届けするコラムページ「私的事情」です。
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外村 大 |
左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。 |
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力道山伝説の? その(3):そんなわけで人名辞典の類を調べた(日本編) | 2005.8.9 |
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百科事典にせよ、個別テーマの事典にせよ、それまで出ている研究を踏まえてその時点で事実として知られていることをしっかり書いてくれないと参考図書として役に立たない。少なくとも「なんとか大事典」を手にする大概の読者はそこに書かれていることを正しいと信じて読むであろうという緊張感を持って執筆してほしい(自己反省も込めて言っております、念のため)。などと、つい記してしまうくらい、一部の各種人名辞典等の「力道山」項目はいいかげんな記述を含んでいる。別表(PDFファイル)に基づきながら、解説を加えていこう。 今回はまず、日本で出された人名辞典等について述べる。とりあえず1970年代以降のもので調べた。 まず、力道山が朝鮮人であることに触れることが一般化する転機は1980年代半ばであったことがわかる。 それ以前においては力道山と朝鮮のつながりは朝日新聞社や平凡社の事典類でも記されていなかったが、1984年の『長崎県大百科事典』では、本名が金信洛であることのほかに「大村市出身、朝鮮生まれ」とされることとなる。それまで力道山の出身地とされてきた長崎で出された、長崎についての本がもっとも早い段階で力道山が実は朝鮮生まれであることを記しているのは皮肉とも言えるが、力道山がどのような事情で「本籍長崎県大村市」となったかを知る人がいたわけであるから、こう書かざるを得なかったのかもしれない。 しかし、1985年の『大百科事典』と1986年の『現代日本人物事典』では、本名百田光浩とされ、出身地の記載もなんだか朝鮮なのか何なのかよくわからない記述となっている。 1990年代に出たものでは、力道山が朝鮮人であることがよりはっきり記されるようになる。『現代日本朝日人物事典』の力道山の項目(いいだもも執筆)は「戸籍上は百田光浩として長崎県大村市で農民百田巳之助・たつの三男として生まれたことになっているが、実は養子、本名・金信洛。戦時中に一時帰国した際、先妻(1961年病死)との間に朝鮮咸鏡南道でもうけた娘金永淑の「わが父(アポジ)力道山」という証言がある」と記している。しかし、民族が何であったかについてはっきりと触れるというものばかりではない。2004年出された『20世紀日本人名事典』も、朝鮮人であった、との記述はなく、旧名金信洛とあるだけで、朝鮮生まれとも記されていない。長崎県大村市出身とされているので、長崎生まれの在日朝鮮人二世とか、あるいは「かねのぶ・らく」という名前を持っていたと思う人もいるかもしれない。 事実かどうか疑問に思う記述も散見される。満州にもいたとする『現代日本朝日人物事典』の記述や国籍が理由で年寄株取得ができず廃業したとする『民間学事典』の説の根拠はなんだろう? それと単純な間違いも見られる。『体育人名事典』では、本名百田光治(浩の誤植であろう)となっているし、『日本人名大事典 現代』での出身地は長野県大村町とされている。長崎の「崎」の字の誤植であろうと思ったが、念のため長野にも大村というところがあるのかと、角川書店の地名辞典を引いたところ、平安時代に大村郷というのがあったことを確認した。こんな知識を得ても何の得にもならないのであるが……。
別表へ(PDFファイル) |
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