 | | WEB・CD-ROM・DTPのサムクイックがお届けするコラムページ「私的事情」です。
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外村 大 |
左の写真は、韓国ソウル、清渓川の上の橋に建てられた全泰壱(チョン・テイル)の像。勤労基準法遵守を叫び焼身自殺を遂げた人です。像の周りの歩道には、個人や労働組合によるメッセージ入りのプレートが埋め込まれており、興味深く読みました。足元が重要、ちょっと立ち止まって見てみましょう。ずっと、そればかりも困るのだけど…。 |
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キムチの気持ち:その7 普及阻害の要因は? | 2005.4.25 |
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前回紹介した、『朝鮮ッてどんなところ』は、自分の本ではなくどこかの図書館で見たものである。そんなわけでコピーしか手元にないのだが、奥付を見ると、1941年4月20日が初刷で、同じ年の8月10日第7刷となっている。つまりはそれなりに売れたのである。もちろん、今日の韓流スターがどうしたといった本の比ではないだろうが、朝鮮料理のほか、「春香伝」やら崔承姫やらも含めて、朝鮮を紹介する本の需要はこの時期それなりにあったと見てよいだろう。
ただし、軽い文体で内容的にも重い話はほとんどないこの本にも、何ともいえないアンバランスな要素も含まれている。なにしろ、本の表紙に「皇国臣民の誓詞」が掲げられているのである。キムチの紹介でも実は「キムチの好き嫌いによって内鮮一体の強化程度が判らうという程のものだ」という文章が"軽く"挿入されている。
さて、前回、この時期朝鮮旅行をしてもキムチを土産に買って帰る日本人は少なかったのではないかという疑問を出しておいた。詳細に裏付ける資料など存在しないが、おそらくそう見て問題ないと思う。土産品としてキムチを買ってくる日本人が増えた、という話は、戦前期の資料では見たことがないのである。
『朝鮮ッてどんなところ』が出たのは前述のように1941年4月で、すでに総動員体制確立、皇民化政策が進められていたわけであるものの、まだ、観光旅行の話などができた。だが、同じ年の12月には対米戦争もはじまり、その後戦局は悪化、観光旅行どころではなくなったはずである。
ただし、キムチ土産が大衆化されなかった原因をあまり政治史的に解釈するのも問題があろう。たぶん、そこには臭いの問題も関係している。現在であれば臭いをシャットアウトした包装も可能であろうが、戦前ではそれは難しかったと思われる。日本人旅行者が長時間キムチを抱えて連絡船なり電車で他人と一緒に過ごすのは相当な勇気が必要だったはずである。
臭いゆえに持ち運びができない、となれば、大量流通、大量販売もできず、普及にも差し障る。在朝日本人が自宅でキムチを漬けていたという話も、"自宅では食べる、しかし、他人におすそ分けはしない"ということであったかもしれない。もちろん、弁当に入れて持っていった日本人などいないであろう。キムチを礼賛して止まない日本人がいた一方で、戦前、キムチが普及しなかったのはやはり臭いの問題が大きかったのではないだろうか。
ところで、「冬のソナタ」に魅せられた人たちからは、しばしば、映像が素晴らしい、韓国の風景が美しい、という話を聞く。そんな話に対して、一年程度であるがソウルに住んでいた私の妻は冷たく言う、「きれいに撮ってあるけどソウルの街はキムチ臭い」と。
だが、私は言いたい。「負けるな! 冬ソナファン! キムチとへジャングクとポンテギとおでんとオットゥギのカレーの入り混じった匂いのする韓国の街はとても魅力的だ」と。まあ、あんまり無理していろんなものを受け入れる必要はないわけであるが。 |
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