日本が韓国を植民地とした1910年以前から、大陸浪人やら一儲けしようという連中、朝鮮を訪れる日本人は結構いた。それらの人々は当然、朝鮮料理に接したわけである。では、この時期の日本人は、朝鮮料理にどのような反応を示したであろうか。容易に予想されるように、日本人は朝鮮料理に拒否感を示した。ニンニクも唐辛子もごま油もほとんど使用しない料理で育って来たであろう19世紀生まれの日本人が最初から抵抗なしに朝鮮料理を受け入れるというわけにはいかなかったのである。
沖田錦城というジャーナリストが1905年に記した『裏面の韓国』の「飲食物」の項目には次のような一文が見える。「黒じみたる羹汁に真赤くなる迄胡椒を加えたる菜を添え一種異様の臭気を放ち一見嘔吐を催するが如きものこれ朝鮮料理の特色とでもいうべきか」。なお、引用文中で「胡椒」とあるのは唐辛子のことであろう。
しかし、このように述べている一方で、沖田はキムチのことを次のように紹介している。
…この漬物はキムチ−と言って朝鮮名物の一ッである、製法は時と品とにより多少異なるも大概蝦其他の魚類及び例の胡椒を首め葱、蒜韮、胡麻等可成多類の材料を混じたれば味も案外美にして永く彼地に住する邦人抔は態々誂へて食てる向きも少なくない。
少なくともキムチについては沖田も好意的である。そして、朝鮮に在住していた日本人の間でもキムチが好まれていたらしきこと、この時期すでに自らキムチをつける者もいたことがわかる。
韓国併合後、在朝日本人はさらに増加する。在朝日本人中キムチ愛好者の比率の推移は右肩上がりであったかどうかは断定できないが、絶対数で言えばキムチ愛好者の増加は間違いないはずである。なかには、日本の漬物より美味しいと力説する者もあらわれるようになっていた。例えば、1922年に出されている『朝鮮川柳』という本では、キムチについての次のような解説がある。
朝鮮人の漬物の事なり、菜を奇麗に洗ひ、茎と茎との間に、塩海老、塩魚、唐辛子、棗、蒜、梨などを詰めて漬く、香ひプンとすれど味ひ甚だ美にして高価なり、家庭によりそれぞれ詰ものを異にす、キミチを食しては、内地の漬物は気抜けしたる如くにて食せられず。
ちなみに、この本でキムチの解説が行われているのは「濁酒(マッカリ)の肴キミチに箸が立ち」という句が入っているためである。
このほかに『食道楽』1930年1月号所収の佐藤五郎「朝鮮漬物の味」という記事は、キムチは「その漬方如何に依るであろうが、美味しさは随一であらふ」「これのみを副食物としても満足が出来る」と伝えている。
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